まさひろのプロフィール

 

どうも、まさひろです!

僕は現在、埼玉県に住む会社員兼ネット起業家です。

元々は将来スポーツライターになる夢を持っていた雑誌編集者でした。
そのあと紆余曲折あり接客業に移り約10年販売の仕事に今も従事しています。

しかし、会社の給料が10年前と今、まったく変わらない現状やある出来事を経験したことで、会社以外での収入源の確保の必要性を痛感。

今は、ある女性起業家さんのもと「仕組み化ビジネス」を学びながら

「売り込まずに自分のファンを作る」

「『あなただから購入した』と言ってくれるリピーターを作る」

そんなビジネスモデルを構築するべく学びと実践を続けています。

そんな僕の半生をまとめさせて頂きました。

もしたとえ今、あなたに何かうまくいっていないことがあっても、僕の経験があなたを勇気づけるキッカケになるかもしれないので、ぜひ読んでみてください。

小学生①:借金取りが家に来て母号泣

 

僕の父親は、母方の親戚のおじさんから言わせると「良い奴」だったらしいです。

しかし大のギャンブル好きで、まじめに仕事をしてもウソと借金を積み重ねる人でした。
当然借金の催促状が自宅ポストに届いたり、借金取りからの恐喝じみた電話がかかってくる
日々を過ごしていました。

借金取りから掛かってきた電話で、過呼吸になりながらも号泣し謝る母の姿を何度も見てきました。

借金取りが自宅に来ることもしばしば。そのたびいつも対応するのは父ではなく母。
父はひたすら借金取りから逃げていたので、自宅にはほとんどいませんでした。

たまに自宅にいるなと思っていても借金取りが来たら、テレビや電気を消させて、借金取りが諦めて帰るまで居留守を使ったことも。

 

借金取りから逃れるために、僕も小学校を2回転校することを余儀なくされました。

せっかくできた友達とも、お別れの挨拶を満足にできないままお別れしなくてはいけない。
友達と離れるのがイヤで、1日布団に顔をうずめて号泣してました。

そういう経験もあって、大人になってからも組織の中での人間関係で苦労しました。

借金取りに怯える父と母。
両親のそんな姿を目の当たりにして僕は子供心に借金=「お金は醜いもの怖いもの」と
思うようになりました。

小学生② 家にお風呂がある友達がうらやましかった

 

小学3年生のときに、母は子供たちを守るためにも父と離婚。
母の地元である東京に引っ越しました。

生活のためにも母は働きに出るように。
妹と僕はしばらく祖母の家で生活をしていました。

しばらくして祖母の家を出て小さなアパートを借りて暮らすことに。
そのアパートは風呂がなく、銭湯に通う毎日を過ごしていました。

小学校の同級生たちからは、家に風呂がないことで馬鹿にされました。
家にお風呂がある友達がうらやましかった。

誕生日プレゼントも友達は高いゲーム機やソフトを買ってもらっている姿を見ながら
何度も友達のことをうらやましく思いました。

友達の家に行くと、親から買ってもらったゲームソフトがたくさんありました。
僕もゲーム機本体は母から買ってもらいましたが、持ってるゲームソフトは数本だけ。

友達数人でゲームをすると、たいてい僕はその様子を見ているだけでした。
ゲームをプレーさせてはもらえませんでした。

なぜなら、そのゲームを持っていないから、そのゲームをプレーしたこともないから
下手なんですよ。

下手だから格闘ゲームでもスポーツゲームでも何をやっても友達の相手にならないんですよね。

だから友達と遊んでても、ゲームを遊んでいる友達の姿を見ているだけで時間が終わるので、とてもつまらなかったです。

ゲームをやるよりも、一人でストーリーを作ってブロック遊びや人形遊びをする方が好きでした。だから友達が遊びに誘いに来ても居留守を使うことが多かったです。

そして何より寂しかったのは、学校から帰ってきても、母が家にいないことでした。

ある日、学校の友達の家に遊びに行ったときに、友達のママがおやつにとケーキを焼いてくれたんです。

そのケーキがとても美味しかったのと、母親が学校から帰ってきても家にいて手作りのケーキを焼いてくれる友達がほんとうにうらやましかったのを覚えています。

母が働きに出て家にいないのも、「お金がない」せいだし、
友達から貧乏だと馬鹿にされるのも「お金がない」から。
好きなゲームソフトを買えずに友達の家がうらやましいと思うのも「お金がない」から。

「お金」はますます僕の人生を邪魔する存在でしかなくなりました。

中学~高校

 

母子家庭で生活が苦しいなかでも、僕が「塾に通いたい」と言うとその希望を叶えてくれました。

中学校に上がっても、正直集団生活は苦手で、一人になれる休日が楽しみな日々を過ごしていました。偉そうに振舞う学校の先生も大嫌いでした。

偉そうな大人が嫌いというのは、大人になった今でも変わりません。

経済的には苦しい中でも、母は高校も進学させてくれました。
子供の希望を叶えてやりたいという想いには今も感謝しかありません。

そして、別れたはずの父もたまにアパートにくるようになりました。
来るたびに大量の果物や食べ物を買ってくる父。

今思うと、子供と少しでもスキンシップを図っておきたいという父の想いがあったようにも思えます。

父と僕との親子の関係性はぎこちないものでした。

どこか他人行儀でよそよそしい部分がぬぐえませんでした。
父は幼い頃から僕の学校の授業参観や運動会に1度も顔を見せたことはありません。

一度、父の銭湯に行ったときに言われたことがあるんです。
「自分は子供との接し方が分からない」と。

それを実の子供に対して言うかと今なら思いますし、当時はその言葉を父から聴いてショックを覚えたことは今でも印象に残っています。

実はあとから知ったことなんですが、父は実の親に捨てられた子供だったらしく、親の愛情というものを受けたことがなかったようなんです。

それがこの「自分は子供との接し方が分からない」という言葉につながっているようです。

ぎこちないものの父とも会話をするようになった僕。

けれど、なぜ父がアパートにちょくちょく来るようになったのかというと、お金を母から借りるためでした。母に直接頼んでお金を借りるならまだしも、時には母が貯金箱にコツコツ貯金していたお金を勝手に持ち出したこともしばしばあったようです…。

そんな父の姿を見て子供ながら「お金に汚い父のような大人にはならない」と当時は心に決めていました。

大学~社会人 夢を叶えるも挫折

 

高校2年生から将来の自分の進路を考えるように。

僕はスポーツを文章で表現する「スポーツライター」という仕事を目指すことにしました。

キッカケは1冊のスポーツノンフィクションを書店でたまたま購入したことでした。
そのスポーツノンフィクション内で書かれていたスポーツ選手の苦悩や苦難を乗り越える過程の物語に魅了されていました。

「将来、この道で生きていく!」

そう決意し、それからは毎日そのことだけを考えていました。

スポーツライターになるためには、まずは出版社に記者として入社して
実績を積むことが大事と考えて、出版社に入社するために大学進学を決意。

大学受験に1度は失敗するものの、次の年になんとか大学に進学。
奨学金を借りながらも大学に通っていました。

スポーツライターで一生食べていくことは決めていたので、大学にいる間に
いろいろな仕事を経験しておこうと思って、複数のアルバイトをしていました。

アルバイトを選ぶ際ですが、スポーツライターになってからのインタビュースキルを磨くために人と接する仕事や出版社にコネが作れる仕事を選びました。

フィットネスクラブのフロントスタッフ、某アパレルショップの店員、某カフェチェーンの店員、学習塾の講師、出版社の雑用など。

その後、就職活動での出版社の入社は競争率が高すぎて難しいと思った僕は
大学卒業後に出版スキルが学べる専門学校に1年通うことに。
アルバイトをしながら、出版社に入社するという目標を叶えることだけを目標にしていました。

そして専門学校卒業後、出版社の下請けである編集プロダクションに入社。
晴れて編集の世界に足を踏み入れることになりました。

編集プロダクションでは、飲食店や観光スポットの取材などを行い、
スポーツ選手や芸能人、作家など普段の生活では会えないような人たちへのインタビューを行う経験を積むことができました。

刺激にあふれた日々でした。

しかし、またここで問題が。

編集プロダクションは下請けということもあり、会社との雇用も業務委託契約になっていて
社会保険にも加入できず、給料も学生時代のアルバイトに毛が生えたぐらいの薄給でした。

生活はカツカツで、苦しかったです。

また「お金」が僕を苦しめることになりました。

この問題を解決するため、そしてさらなるキャリアアップを目指すために
出版社への転職を決意し転職活動をスタート!

何社も面接で落ちましたが、なんとか小さな出版社への転職を成功させ、
夢だった編集者になれたんです。最終目標であるスポーツライターになる道に一歩近づくことができました。

その出版社では、編集プロダクションにいた時よりも、より高度な編集の仕事を経験することができました。経済界や政治、スポーツ、芸能など各界で活躍する人々にインタビューして記事にする仕事はかなり刺激的でした。

そんな刺激的な時間を過ごし、給料も編集プロダクションのときよりも数倍も良い額をもらっており、スポーツライターの夢を叶えるためにも順風満帆の生活を歩んでいるように思えました。

しかし、残念ながら、そんな自分の思い通りに人生は進みません。

まわりの諸先輩方との実力差、プロ意識の差を徐々に痛感することになり、次第に仕事を思うように進めることができず、任されていた担当ページの担当を外されたり、仕事がなかなか進まず他の編集者やデザイナーに迷惑をかけることに。

先輩たちからも毎日叱責される日々を過ごしていき、仕事が終わらないせいかなかなか家に帰れない、ストレスと締め切り等のプレッシャーもあり、会社に行きたくない日が続き、しまいには精神科でうつ症状の診断を受け、休職。1か月近く休職するも症状は改善せずに、
編集者を辞めることになりました。

ずっとスポーツライターになること。そのために出版社に入って、編集者として実績を積むことだけを考えて生きてきただけに、その夢が途中で消えてしまいました。

おおげさではなく、生きる目的を失いました。

社会人② 突然のクビ宣言

 

生きる目的を失った僕は、目はうつろで気力もありませんでした。

しかし結婚し子供もいたことから生活していくための「お金」は必要。

スポーツライターになることへの未練はあるものの、生きていくために
まずはアルバイトから仕事を始めることに。

選んだのが携帯ショップの店員でした。
時給も高くて、誰でも出来そうって思ったのが選んだ理由でした。

接客業の仕事なんて、編集者に比べたらラクって思ってました。

しかし、世の中そんなに甘くない。
それが大きな間違いだったことに、すぐに気づくことになります。

携帯に関しての知識はまったくのゼロ。
携帯販売の流れや仕組みさえまったく分からないただの素人。

おまけに夢破れて失意の状況でなおかつ携帯販売は誰でもできる仕事だと思って
なめていたので、仕事にもやる気がでず。

お金をもらうためだけに働いていたようなものでした。

そんな人間が通用するはずもなく、配属された店長や直属の上司から毎日怒られる日々。
「なんで俺がこんな奴らに怒られないといけないんだよ!」って思いながら、「今日こそ辞めてやる」って思いながら携帯ショップの仕事を続けていました。

店長からは「まずは電話応対をしっかり出来ないとクビ」と言い渡され、生活のためにも電話応対の練習を自宅の風呂に入りながら毎日行っていました。

なんとか電話応対はOKをもらいクビは免れるものの、売り場での接客は禁止。
何かのキッカケでお客様と売り場で話そうものなら、裏に呼び出されて店長から怒られていました。

当時の僕に任されて仕事は他のスタッフのフォローや電話応対などの雑用
そして店外で大声を出してのお客様の呼び込み。

お店は道路沿いの路面店で、脚立に上って、旗を振ってメガホン片手に1日中
お客の呼び込みを行う日々。

雪が降る日だろうが構うことなく、ひたすら大声で呼び込み。
「自分はなんでこんなことをしているんだろう」と疑問に思うことも度々あったけれど、
ひたすらメガホン片手に大声を上げ、呼び込みをする日々。

それが3か月続いたある営業終了後。
僕に電話応対ができないとクビ、接客は禁止を言い渡していた店長から呼び出されることに。

「何か怒られるようないけないことしたかな?」とビクビクしながらも店長のいる部屋へ。

そこで店長は思いがけない言葉を僕に投げかけてきました。

「うちの会社で店長を目指さないか?」

「えっ!?」その言葉を聞いてびっくりしました。

なんでもここ数か月続けてきた店外での声出しが、会社の上層部の目に留まったようで、
店長も僕の姿を見て、一定の評価をして頂いたうえでの発言だったようです。

それを機に、店長を目指すことになり、3か月ずっと禁止だった店頭での接客も解禁。
その後はまわりのスタッフさんや店長のサポートもあり、正社員になり、新店舗の店長になることができました。

社会人③ 上司との人間関係で悩む

 

晴れて新店舗の店長となった僕。

しかし、ここからが新たな苦難のはじまり。

店長ということは、管理職でもありお店の売り上げの責任を一手に担い、なおかつ部下の教育もしなくてはいけない立場に。

お店の売り上げが上がらなければ、会社の上層部から怒号で詰められます。今ほどパワハラに対しての世間の目が厳しくない時だったので、その「詰める」ことも社員教育の一種だと理解されていました。

部下のアルバイトスタッフに仕事に対してのやる気が見られない、販売成績が上がらないとなると、その部下の教育者である店長の責任となり、また会社の上層部から詰められます。

そんなことをひたすら毎日繰り返す日々。

上司にもさまざまなタイプがいて、僕は上司や会社の上層部にゴマをすれるタイプではないため、その点もかなり苦労していました。相手が上司だろうと、言いたいことを言ってしまうんですよね…。それは今も変わってないのですが…。

組織に対しての忠誠心というものがまったくありません。

「会社の外を出れば、社長もただの人」って考えが根底にあるのと、雑誌編集者時代に、会社の社長を取材してむしろ編集者ということで持て成された方の経験があるため、「社長が偉い」ってことも1ミリも思わないんです。

会社の常務から叱責されて悔しすぎて夜、泣いて帰った日もありました。

携帯ショップの店長としては、2年ぐらい働いたんですが、
そのときの上司との反りがどうしても合わずに「お前の下では働きたくない」と電話でその上司に伝え、退職を決意しました。

まわりのアルバイトスタッフや他店の店長が僕のために、送別会を開いてくれたのですが、同じ日に新人スタッフたちの歓迎会をその上司にセッティングされてしまい、上司の顔を損ねたいためにも、僕の送別会にアルバイトスタッフや他店の店長が参加できなかったってこともありました。

この経験から、会社組織で働くことがイヤになってたんですね。

会社勤め以外に生きていくことはできないのかを真剣に考え始めたのもこの頃からです。

副業開始① せどり転売系うまくいかず

会社内での上司との人間関係がイヤになった僕は、真剣に会社勤め以外での働き方を考えることになりました。

当時は
「ノマドワーク」や「ネオヒルズ族」が話題になっていて、僕も「ノマドワーク」に憧れて書籍や講演会に参加し始めました。

そして「せどり」というものに出会います。
「せどり」とは、ざつくり言うと、ブックオフや家電量販店などで売っている商品を安く仕入れて、Amazonやヤフオクで高く売り、その差額で儲ける方法です。

「せどり」で儲ける教材を数多く買い、時には3万円の有料セミナーに参加。せどりのコミュニティや勉強会、1日有料せどりコンサルなども利用しました。

「せどり」だけでは生活が成り立たないので、以前とは違う他の会社で携帯ショップ店員としてアルバイトしながら、勤務後にブックオフや家電量販店、CDショップ等によって商品を仕入れる日々を過ごしていました。

とくに雑誌を数冊仕入れたときは、雑誌って案外重いので、ビニールの買い物袋が破けないか注意しながらも、手のひらが真っ赤になる痛みを我慢して、仕入れた雑誌がパンパンに入ったビニール袋を両手に抱えて自宅まで帰りました。

またブックオフでセールがある日は開店前に並び。他のせどらーと闘いながらも本を仕入れする日々を過ごしていました。

まったく儲からないってことはなく、当時でも1回だけですが最高利益で月15万は出したことがありました。

けれど、アルバイトの帰りにせどりという労働を行うキツさが結構あり、仕事が休みの日も仕入れた商品の出品や配送に多くの時間を使う羽目になり、そんな日々が苦しくなぅてやめてしまいました。

また一時期は、自宅とは別にアパートを借りてせどり転売の作業をしていたのですが、思ったよりも儲からずその焦りから余計なことに手を出して結局借金だけが残ってしまいました…。

せどり転売関連では、中国輸入にも手を出しましたが、当時は利益のためにも粗悪品を売るってことで罪悪感を感じながら出品をしていたこともあります。

その罪悪感からか、急に嘔吐し、それがしばらく止まらなくなってしまったことがあり、「これは続けていけない」と思い辞めてしまいました。

・ヤフオク転売
・家電せどり
・雑誌せどり
・本せどり
・おもちゃせどり
・中国輸入
・メルカリ転売
・古着転売
・BUYMA
・スマホ転売

などなど。

ありとあらゆるせどり転売系も実施するも、継続できず。
途中でやめてしまいました。

副業② 情報発信するも集客できず

 

せどり転売系がどうも僕にはしっくりこなかったので、一時期は副業を辞めてサラリーマン一本で再び正社員として働くことにしました。

マジメにコツコツと会社員で働いていたのですが、ある日状況が一変します。

「会社経営に失敗したので、来月から全社員給料の10%を減額します」と社長からの突然のアナウンス。

寝耳に水とはまさにこのことでした。
また僕は正社員だったのでどうにか大丈夫でしたが、社長の会社経営の失敗による業績不振のあおりを受けて、会社を存続させるためにも「人を切る」ことになりました。

そこで対象になったのが入社して半年未満の「契約社員」の後輩たちでした。
僕が勤めていた会社は入社して半年たったあとに問題がなければ「正社員」になるという制度がありました。

その制度を利用しての都合の良い「足きり」でした。
彼らにとっても寝耳に水だったでしょう。ある後輩は突然の会社からの通告に憤りを隠せず、ある日僕が勤務する店舗に来て、その怒りをぶちまけていました。

ただ、情けないことに当時の僕は副業も辞めており、収入源が会社勤めしかないため下手に会社に反抗すると自分がクビになるという考えもあって、後輩に同情はするも、それ以上のサポートをしてあげることができませんでした。

この一連の出来事を目の当たりにして「会社勤めだけでは危険」ということを改めて再認識した僕は、再び副業に取り組み始めることを決意し行動に移しました。

今度は、せどり転売ではなく、仕入れ原価もかからず在庫も抱えずにすむ「情報発信ビジネス」に興味を持ち、実践することを始めます。

あるコミュニティに参加し、ある方の高額コンサルにも思い切って申し込み。

その高額コンサルを受けつつTwitter、インスタ、YouTube、ブログ、メルマガ等の情報発信の媒体を立ち上げて、その媒体で情報発信を続けながら、商品を紹介してその紹介料をもらう「アフィリエイト」というものに取り組み始めました。

「これで会社勤め以外の収入源が作れる」との期待が胸いっぱいに広がっていました。

しかーし。現実は甘くありませんでした。

1年たっても、まったく稼げません。
いや稼げないというよりも、人が集まってきません。

「これだけやっても結果が出ないってことは、何かが間違っている」

しかし、何が間違っているのかが自分では分からない状況でした。
ビジネス迷子の状態がしばらく続きました。

副業③ 諦めなかったからこその出会い

「なぜ自分が稼げていないのか?」

明確な理由が分からないなかで、モヤモヤする日々を送る毎日。

そんなある日、会社帰りの電車のなかで、ふとTwitterを見るとあるツイートが目に止まりました。

初心者はまずはこれから
脱ビジネス迷子 シンプルで簡単な仕組み化戦略「まったくの初心者が、1秒も働かずにお金を稼ぐ仕組みを作る、0からのビジネス戦略」

ある女性起業家さんが教材を販売したというツイートでした。
僕はその教材を販売する女性起業家さんのことを存じあげてなかったのですが、
「脱ビジネス迷子」という言葉が、そのときの僕の状態と願望をピンポイントで付く言葉であったこと、そしてその教材の価格が980円であったこともあり、その場で購入することに決めました。

「たとえ役に立たなくても、980円なら無駄になってもいいや」という軽い気持ちでした。

購入後に中身を見てビックリしました。
そこにはまさに、なぜ僕が仕組みを作ったのに稼げてないのかの答えがありました。

夢中で教材内の動画を一気に視聴したあと、購入者限定で無料コンサルがあるとのことで
速攻で応募しました。

無料コンサル当日。

僕はTwitterのプロフィールを添削頂いたのですが、その添削での指摘がまさに
僕が仕組みを作っても稼げてない原因を的確に指摘してくれていました。

それも遠慮なくズバズバと。
そのズバズバ指摘が新鮮でした。

そしてこの方から学ぶたいと思い、無料コンサルが終わった当日に
その女性起業家さんに連絡をし、その方から指導を仰ぐことになりました。

何をやるにも失敗続きでうまくいかなかった僕が
唯一持っていた取柄。

それが「諦めないチカラ」です。

「諦めないチカラ」があったからこそ、
挫折したとはいえ雑誌編集者になることができたし、

夢破れて失意の日々にあっても人生を「諦めないチカラ」があったからこそ、
クビを宣告されたあとでも、そのクビを宣告した店長に認められて携帯ショップの店長になることができました。

「諦めなければなんとかなる」ってことを僕はこれまでの人生で身をもって体験しています。

今回も再び「諦めなければなんとかなる」ってことを体現するために女性起業家さんの指導のもと学びまくる日々を過ごしています。

今後は僕のように、「諦めなければなんとかなる」って気持ちを持つ方のサポートをしていきたいと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

会社を辞めても困らない生き方を実現する平凡サラリーマンの物語
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